縁の下の力持ちを意味するUnsung Hero
レフリーがピッチ上で走りレフリングできるのも、陰でサポートして下さる方々あってのこと。そんなUnsung Heroに光を当てていく新企画の最初のゲストは長きに渡り日本ラグビー界そしてレフリー界にご尽力してこられた岸川剛之さん。
2025年2月末を以て日本ラグビーフットボール協会を退職されることとなった。
そこで、これまでの足跡や思い出などを振り返りながら、また今後のレフリー界への期待など、ご本人にお話を伺った。
まず、岸川さんとラグビーの出会いについて教えて下さい。
小中学校ではサッカーをしていましたが、体育の先生がラグビー好きで授業でやったりしていました。また、親戚の叔父さんが日本大学でラグビーをしていた事もあり、高校では強いチームでラグビーをやってみたいと考えていた時に、中学校3年時の花園準決勝での目黒vs國學院久我山の試合を観て、圧倒的な力の差があったにも関わらず、ひたむきな戦い方に感動をし、目黒高校に興味を持ち電話をしました。
凄い行動力ですね!
電話を取って下さった方が監督の梅木先生に繋いでしまったことで話はとんとん拍子に進み、「週末に運動できる格好で八幡山に来なさい」と言われました。
グラウンドに行ってみると自分と同じような新入生候補が集められたセレクションで、なんとその場で試合をすることになりました。しかも相手は強豪青山学院中等部ラグビー部。サッカーをやっていたという理由からFBでプレーしましたが、完敗でした。対戦相手の中には前日本協会副会長の山本巧さんもいました。
そして目黒高校ラグビー部へ入部しましたが、どんな高校時代でしたか?
1年生の時にチームは全国優勝しましたが、2年生時は厳しく理不尽な練習もあり同級生数名と一緒に四国まで逃亡し、1ヶ月ほどアルバイトをしながら共同生活をしていましたが、その内の1人が彼女に電話をしたところから情報が漏れ、母親に連れ戻されました(笑)。
3年生では肩の脱臼癖もありレギュラーに定着できず、花園予選で本郷高校に敗れてしまいました。
卒業後は日本大学へ進学されますが、レフリーは大学から始められたのでしょうか?
大学に入って肩の手術をしたのですが、回復が思わしくなく2年生からスタッフになりました。
グラウンドレベルで何かできることはないかと考え、レフリーをしていました。
当時、練習試合はOBや知り合いに頼む、もしくは学生が笛を吹くのが通例でした。
そのような背景もあり大学4年でC級を取得し、三洋電機や東芝と日大のゲームを吹く機会にも恵まれました。
しかし、初めてレフリーをしたのは実は高校3年生の時なのです。
引退後の2月に紅白戦で梅木先生に笛を渡され、「レフリーをしろ」と。
まさかの出来事、経験でした。
今でこそ高校生のレフリーもいますが、岸川さんはパイオニアだったのですね。
11月で負けて引退のはずなのですが、何故か花園まで行って観客席の掃除をさせられ、3月まで練習に参加していました(笑)。
そしてレフリーの世界へと入り込んでいくのですね。
勤務先だった三陽商会にラグビーチームがあり、プレーヤにも未練があったのでプレーをしながらレフリーをしていました。というのも当時のトップレフリーは40歳以上の方ばかりで、今から20年以上かけてトップレフリーを目指すという想像ができませんでした。将来的に早明戦を吹けたらいいなという想いはありましたが、上昇志向はあまりなくレフリーはラグビーに携わる1つのツールでした。
2002年にA1級に認定されましたが、何か転機があったのでしょうか?
それまで7年間A級へチャレンジし続けていました。その中でレフリー仲間から漏れ聞こえてきた環境や現状に関しての不平不満を変えたいと感じていました。その為にはB級のまま終えたのでは説得力がない、と考えてA級になってから辞めようと考えるようになりました。
A1級になってからトップリーグや全国大学選手権など多くのゲームを担当しました。思い出に残るゲームは多くありますが、非常に難易度の高い入替戦を7回担当する機会に恵まれたことはレフリー冥利につきます。
2006年に一線を退かれ、2009年からレフリー委員長を務められました。
レフリー委員長就任後直ぐに日本開催初となる国際大会U20世界大会やブレディスローカップが日本で開催されるなど、ワールドカップ招致に関連して様々な試みや変化がありました。
その中で私としては「2019年RWCと2020年オリンピックにレフリーを輩出する」 「地域協会と日本協会を一本化する」 「女子レフリーの発掘」を使命として活動を進めました。
私が就任するまでは10名程度のスタッフで運営をしていましたが、皆さん当然ボランティアで関わって下さっていましたので、当時の岡本事務局長にお願いをして50人程度まで増やしてもらいました。そうやって関わった皆さんが日本協会レフリースタッフから退いても地域にも還元してくれる、ひいては地域協会と日本協会の一本化に繋がると考えていました。
また、物事を進めていく為に様々な立場の人を巻き込んで仲間を増やしていくことを意識しました。同年代だけでなく年上の方、間違ったことや疑問に思ったことなどを率直に意見を下さる方、レフリーではない協会役員や他競技の方にも参画してもらい、成長する組織作りに努めました。
どのような形であれ必ず壁にぶつかったり、衝突したりすることはあります。ですので、そういった成長する組織体制を作って物事を長期的に進めていこうと考えていました。
各地域で定期的にレフリーミーティングも開催されていました。
2003年にトップリーグが開幕するまでは地域のゲームをトップレフリーが担当していましたので、そこで地域のレフリーとトップレフリーが交流する機会が多くありました。
技術だけでなく、レフリーとはなんぞや、みたいなことを伝える場が減っていました。
そういったこともあり、意図的にこのような働きかけを行いました。
これからのレフリー界に期待することは何でしょうか?
今シーズンリーグワンのパネルレフリーは「応援されるチーム」をスローガンに活動しています。レフリーがいなければ試合が成立しないと言いますが、チームやプレーヤー、運営スタッフ、多くの方がサポートして関わって下さっていることへの感謝を忘れずに、会場で関係者への挨拶など、当たり前のことを当たり前に振る舞えるよう継続してやっていって欲しいなと思います。
スタッフに関しては、委員長1人だけでやるのではなく、強い個々を前提に人数を増やして組織として対応していく形が理想だと考えています。
次の世代へと繋いでいくような世界を作っていってもらいたいですね。
岸川さん、本当にこれまでお疲れ様でした。そして、ありがとうございました!
これからもレフリー界には何かしらの形で関われたらと思っていますので、また飲みに誘って下さい(笑)。
特に夜のコーディネートは秀逸だったとか…海外のレフリーからは親しみを込めて「King of nights」と呼ばれた。心優しきおもてなしやホスピタリティーは国境を越えて多くの人と人を繋いだ。
皆さんも是非とも岸川さんを飲みに誘ってもらいたい。
岸川さんが残して下さった形と想いを大切に次世代のレフリーにも伝え、受け継いでいきたい。