幻のラグビー帝国、ついにW杯に姿を現す!
“南アの、南アによる、南アのための”大会だった第3回

■ネルソン・マンデラ大統領登場!

南アフリカの立法府の首都であるケープタウン。
アフリカ大陸最南端の街にあるニューランズ競技場には、期待と興奮に頬を輝かせたアフリカーナー(オランダ系白人)たちが、試合開始の何時間も前から続々と押し寄せた。

1995年5月25日。長年続いた人種隔離政策(アパルトヘイト)への制裁として、第1回、第2回とW杯へ参加を拒まれた南アが、同国史上初めてのアフリカ人大統領ネルソン・マンデラのもとで、晴れてラグビーW杯を開催する。
「我らがスプリングボクスこそ世界最強のラグビーチーム」
そんな彼らの信念が、証明される日がついにやってきたのだ。

開会式では、後にシドニーや北京でのオリンピック開会式の原型となる、自国の歴史を紹介する感動的なパフォーマンスが披露され、マンデラ大統領が開会を宣言した。

スプリングボクスは、白人政権時代は歌うだけで治安警察に拘束された黒人たちのプロテストソング『神よアフリカに祝福を』と、黒人たちが蛇蝎のごとく嫌った白人政権時代の国歌『叫び』をつなげた国歌を、微動だにせぬ姿勢で歌って開幕戦にかける意気込みを強くアピールした。

対戦相手は前回大会の覇者オーストラリア。

南アは、ディフェンディング・チャンピオンに食い下がり、前半終了間際にWTBピーター・ヘンドリクスが左手でガッツポーズをしながらトライを挙げて14―13と逆転した場面では5万人を超える観衆が一斉に立ち上がり、怒濤のような大歓声を上げた。

最終スコアは27―18。

人種を超えて国中が熱狂したこの勝利で、大会は順調にスタートした。
予選を3戦全勝で勝ち上がった南アは、準決勝では豪雨のなかでフランスとの死闘を19―15と制して決勝に進出。WTBにジョナ・ロムーを擁し、準決勝でイングランドを45―29と粉砕したニュージーランドと対戦した(ちなみにロムーはこの試合で4トライを奪う活躍を見せ、世界中のラグビーファンの度肝を抜いた)。

6月24日にジョハネスバーグのエリス・パークで行われた決勝戦は、双方ノートライのまま9―9で史上初の延長戦に突入する緊迫した展開となる。
そして、ともに1PGずつを加えて迎えた延長戦後半に、南アはSOジョエル・ストランスキーのDGで決勝点を挙げ、虎の子のリードを守りきって念願のタイトルを手に入れた。

スプリングボクスのキャプテン、フランソワ・ピナールが、同じ背番号の同じジャージーをまとったマンデラ大統領から手渡されたカップを高々と差し上げた瞬間に、大統領も拳を突き上げてガッツポーズ。この光景は、この大会を象徴するだけではなく、近年のスポーツ界での名場面として世界で広く記憶されており、英国のテレビでは「スポーツにおける偉大な瞬間100」の1つとして取り上げられた。
なお、この大会でのピナールとマンデラの交流は、クリント・イーストウッドが監督した映画『インビクタス』(日本公開2010年3月)に丁寧に描かれている。

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■世界との差を痛感させられた日本代表

ジャパンは、大会前の5月3日に、秩父宮ラグビー場でルーマニアとテストマッチを行い、これに34―21と快勝して南アに乗り込んだ。3月に、91年の前回大会終了後から代表を離れていた平尾誠二がチームに復帰。SOとしてタクトを振ったこの試合は、トライ数5―0という内容もあって、W杯での活躍を期待させるものだった。

92年から指揮を執る小藪修監督も、前年にマレーシアのクアラルンプールで行われたW杯予選で掲げた「タテ・タテ・ヨコ」の指針でルーマニアを破ったことで手応えをつかみ、「周囲の予想を裏切って2勝したい」と述べて南アに乗り込んだ。

確かに5月27日のウェールズ戦を前に、周囲の予想が「裏切られた」のは事実だった。
ルーマニアにトライ数5―0と完勝したメンバーから、プレースキッカーを務めたWTB吉田義人と、スクラムで健闘したPR田倉政憲を外したのだから。

試合前には「パンクするまで走らないとジャパンは勝てない」と話していたSO平尾も、ウェールズ戦では手堅いゲームメイクに終始。古豪ルーマニアを破ったことで現地でも注目が集まっていたジャパンだったが、いいところなく10―57で完敗した。

続く2戦目は、この大会でジャパンがターゲットとしていたアイルランド戦。
ウェールズ戦のメンバーからルーマニア戦のメンバーに戻して臨んだジャパンは、前半立ち上がりに3トライ2ゴールを奪われて0―19とリードされるが、そこから反撃。FLシナリ・ラトゥ、途中出場のFL井沢(現・中村)航が連続トライを奪い、吉田がどちらもゴールを決めて14―19でハーフタイムを迎えた。

後半もジャパンの攻勢は続き、1トライ1ゴールを加えられた19分には平尾がトライを奪って(ゴール成功)21―26とふたたび5点差に追い上げた。
しかし、日本の良さが出たのはここまで。アイルランドはあわてることなく深いキックで陣地を稼ぎ、セットプレーで激しくプレッシャーをかけて28―50で試合が終了した。
そして最終戦――日本はニュージーランドに17―145という記録的スコアで敗れた。

前回大会でジンバブエから9トライを奪って1試合でのトライ数の記録を作った日本が、今度は1試合失トライの大会記録を作ってしまったのである。残念なことに、この記録は現在に至るも、未だに破られていない。

大敗の原因としてさまざまなことが考えられるが、この試合にオールブラックスとして出場したケヴィン・シューラー(当時、日新製鋼でプレーしていた)の言葉が象徴的だ。

「僕たちは控えメンバーが中心だったから、これが大会でオールブラックスのジャージーを着る最初で最後のチャンスだと思っていた。当然、オールブラックスの名に恥じないプレーをしようと考えていたし、日本に対しても警戒を忘れずに万全の対策を立てて臨んだ。それに対して、日本の選手は、僕たちをまるで神様みたいに尊敬していた。そんな気持ちで試合に臨んだから、ああいう点差になった。あんなに差がつくほど、力の差はないと思うよ」

つまるところ、W杯を真剣勝負ととらえて長期的に準備を積み重ねてきた列強各国と、大会毎に監督が替わり、ラグビー・スタイルもころころ変わる日本との差を、誰の目にもわかるようにくっきりと示したのが、第3回大会だった。

そして、この大会が終了して2ヶ月後、IRBはラグビーの「オープン化」を宣言。124年間続いたアマチュア競技としてのラグビーは姿を消すことになった。

text by Hiromitsu Nagata


 

■成績・日本代表メンバー

※メンバー表内のC=主将 キャップ数は大会開幕時のもの

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