洗練されたビッグイベントになったW杯
日本は善戦健闘を勝利に結びつけられず

■勝負を決めた、ジョニー・ウィルキンソンの“右足”

2003年の第5回W杯は、当初、ニュージーランドとオーストラリアの2カ国で開催される予定だった。
しかし、大会直前にRWCリミテッドから、ニュージーランド協会に対して各競技場にあるローカル・スポンサーの広告看板を撤去するよう通告がなされ、これに反発したニュージーランド協会が大会の開催から降りて、オーストラリアの単独開催となった。

オーストラリアは、00年にシドニー五輪を成功させて国を挙げてのスポーツ熱が高く、この大会も洗練された大会運営で190万人の観客を集めた。
どこの会場でも定刻になると静かに音楽が流れ出し、その高まりの頂点で選手が入場して、対戦国の歌手が男女ペアで登場して国歌を歌う。手作り感満載だった第1回大会からわずか16年で、W杯は洗練されたフォーマットを持つ完全にプロフェッショナルな大会となった。

予選ラウンドではフィジーやサモアの活躍が光ったが、ベスト8に勝ち残ったのは、IRBオリジナル・メンバー8カ国。新興国に不利な日程も組まれるなど、物議を醸した大会でもあった。

優勝候補は、いつもと変わらずにニュージーランドだったが、北半球の盟主イングランドも、SOジョニー・ウィルキンソンの左足を武器に、虎視眈々と王座を狙っていた。
一方、開催国のオーストラリアは、予選最終戦のアイルランド戦や準々決勝のスコットランド戦で苦しみ、地元メディアから「こんな得点力のないチームでは(準決勝で対戦する)ニュージーランドに勝てない」と厳しい批判が飛んだ。

そして、準決勝。

「タスマン海決戦」とメディアが名づけたライバル同士の対戦は、前半9分にオーストラリアCTBスターリン・モートロックが、ニュージーランドSOカルロス・スペンサーのパスをインターセプト。そのまま80メートル独走トライを挙げて勝負を決め、批判をはねのけたオーストラリアがファイナリストに名乗りを上げた。
もう一方の準決勝は、老獪で強靱なFWを持つイングランドがフランスの才能軍団を1トライに封じ込めて勝ち上がり、北半球にウェブ・エリス杯を持ち帰る野望にあと1つと駒を進めた。
決勝戦までの一週間、シドニーの街はお祭り騒ぎで盛り上がった。

立憲君主制のオーストラリアの国家元首はエリザベス女王。市民の間にはエリザベス女王を元首に戴いたまま英連邦にとどまる「連邦派」と、連邦を脱して共和国にすることを望む「共和派」が数の上でも拮抗しているが、そんな宗主国イングランドとの決戦に、市民は一丸となって我らワラビーズを応援した。

ウィルキンソンの左足で堅実に勝ち上がったイングランドを、地元のメディアは「退屈」と決めつけ、イングランドの宿舎を取り囲んだ市民が一晩中「ボアリング(退屈)」と叫んで騒ぎ、これに激高したイングランドのクライブ・ウッドワード監督が「お望みなら本物の退屈なラグビーをお見せしよう」と挑発する一コマもあった。
決勝前日には、オーストラリア全土でワラビーズのチームカラーであるゴールドの服を着る「ウェア・ゴールド」キャンペーンが行われ、シドニーの街も黄色く染まった。

そして、決勝。

80分間を戦って14―14で延長にもつれ込んだ試合は、延長戦でも一進一退の攻防が続き、残り1分の時点で17―17。そこでイングランドが伝家の宝刀を抜き、細かいサイドアタックを続けた末に、ウィルキンソンが満を持してボールを蹴り上げた。
いつもの左足ではなく右足で蹴られたボールはポストの真上を通過して、ついにイングランドが悲願の世界一の座に着いた。残り27秒での、鮮やかな決勝DGだった。

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■不利な日程に泣いたジャパン、4戦全敗に終わる

向井昭吾監督、箕内拓郎主将の体制で臨んだ日本代表は、この年、大会に入るまで2勝9敗と苦しんでいたが、箕内主将を中心に選手たちが「向井さんを男にしよう!」と一致結束。現地でチームを練り上げて、初戦のスコットランドに挑んだ。
向井監督は、先発に辻高志―廣瀬佳司のHB団を起用。前半をディフェンシブに手堅く戦い、後半に苑田右二―アンドリュー・ミラーの神戸製鋼のHB団を投入して、一気に得点をたたみかけるプランで勝負に出た。
前半、日本はスコットランドに2トライを奪われたものの、全員が低く激しいタックルで対抗。廣瀬が2PGを決めて6―15で折り返した。
そして、後半9分、投入されたばかりのミラーのラインブレイクからスコットランド陣深いところでラインアウトを得て左へ展開。ミラーとCTB元木由記雄のループを交えたサインプレーでスコットランドの防御を完全に崩し、WTB小野澤宏時が待望のトライを奪って4点差に追い上げた。
日本は終盤、強引なアタックに打って出て、そのミスからトライを立て続けに奪われて11―32で敗れたが、地元タウンズビルのファンからは「ブレイブ・ブロッサムズ」と健闘を讃えられた。

続く第2戦でも、強豪フランスに一時は19―20と食い下がり、最終的に29―51で敗れたものの、バックスのアタックから見事なトライを2つ奪って高い評価を得た。
しかし、中4日の強行日程で臨んだフィジー(こちらは前回のアメリカ戦から中7日)戦では、前半終了間際に13―16と追い上げながら、後半に足が止まって13―41と完敗。フィジーも、初戦のフランス戦から第2戦のアメリカ戦まで中3日と不利な日程を強いられていたが、この対戦に限れば、日程は日本に厳しかった。
しかも日本は、最終戦のアメリカ戦にさらに短い中3日で臨まねばならなかった。

試合は、これまでの3試合と同じくアメリカに2トライを奪われて始まった。
日本も懸命に追い上げ、後半17分にWTB大畑大介がトライを奪って26―27と1点差に迫り、怒濤の反撃を仕掛ける。
けれども、ラスト20分を切ってアメリカの運動量が目に見えて落ちてきたにもかかわらず、何度もゴール前に迫りながらスコアすることができず、逆に残り5分でターンオーバーからトライを許して万事休した。

「1点差の状況で敵陣で時間を潰しながら戦ってPGで逆転。最後にその2点差を全員で守るというゲーム運びが日本はできない。みんな、個人としてはさまざまな経験を積んでいるけど、チームとしてそういう経験を積めていない」

試合の翌日、悔しさを押し殺した元木はこう言った。
最後に勝って終わるイメージ――それを明確に描けなかった日本が、善戦健闘に終わったのが、この大会だった。

Text by Hiromitsu Nagata


 

■成績・日本代表メンバー

※メンバー表内のC=主将 キャップ数は大会開幕時のもの

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