Text by Kenji Demura

The Inside Story of the Japan National Team

シンデレラボーイ。
あるいは、33歳のジャパンFW陣最年長のプレーヤーをそんなふうに呼ぶのは、失礼にあたることかもしれない。
それでも、均(きん)ちゃんこと、LO大野均を紹介する場合、その信じられないようなシンデレラストーリーに触れないわけにはいかないだろう。

大野がラグビーを始めたのは、日大工学部1年生の時。
遅くとも高校までにはラグビーを始める選手が多い中、圧倒的に遅いスタートだった。
高校までは野球をやっていた大野。当初は進学した日大工学部でも野球を続けるつもりだった。
「小さい頃から野球をやってきて、大学でも続けるつもりだったんですけど、自分は体がデカいこともあって、ラグビー部の人たちから熱心に誘ってもらった。あまりにも熱心に誘ってもらったんで、それじゃあ1回だけ練習を見に行ってみようかという気持ちになったんです。実際に見に行ったら、凄く楽しそうで、素直に自分もその仲間に加わりたいな、と。最初はラグビーをやろうとしてというよりは、その人たちの仲間に入りたいと思ってラグビー部に入った感じでした」

大野の生まれ故郷でもある福島県郡山市にある日大工学部ラグビー部は、関東大学リーグ戦に所属する日大ラグビー部とは別組織。大学時代の活躍の場は、東北地区大学リーグという、注目を集めることはほとんどないと言わざる得ない世界だった。

それでも、大野自身はラグビーを始めてすぐに楕円球の魅力にとりつかれてしまう。
「人にぶつかっていいとか、人をひきずっていいとか、もちろんタックルもそう。非日常的なことをやってもいいというのが、自分に向いていたというか。もう、最初から楽しかった」

日本代表、ロック、大野 均選手
日本代表、ロック、大野 均選手
photo by Kenji Demura (RJP)

大学からラグビーを始め、トップリーグとは無縁の地方リーグで楽しみながらプレーしていた大野に大きな転機が訪れたのが大学4年生の時。

すでに建設関連の企業から内定をもらう一方、消防士になるための勉強も続けていた大野に、一度だけ東芝ラグビー部の練習に参加するチャンスがめぐってきたのだ。
「大学4年の春に国体の福島選抜に呼んでもらって。その時のFWコーチの方が、薫田さん(真広=元東芝監督)と筑波大で同期だったんです。そこで、目をつけてもらって薫田さんに推薦してもらえて、1回だけ東芝の練習に参加できることになった」

実際に練習に参加した時の本人の認識としては、トップレベルのラグビーにまったくついて行けなかったという感じだったようだが、東芝側は一度の練習だけで“採用"を決めている。

現在は日本A代表監督を務める薫田氏は、当時の大野の印象に関して以下のように語っている。

「ラグビーに関してはド素人。でも、NZなんかのファーマー出身のラグビー選手が持つナチュラルな強じんさを持っている感じがしました。厳しい練習にも音を上げずに最後までついてきたし、真面目で根性もあるな、と。本人には『3年でジャパンにしてやる』と言いました」

当時、「3日で返事を」と言われた大野だが、前述のとおりすでに内定をもらっていた企業にはしっかりお詫びをしつつ、実際には、ほとんど迷わずに東芝入りを決めている。
「やっぱり、東芝でプレーするなんて、やりたくてもなかなかないことなので。自分を試すということで、やることに決めました」

3年前に東北地区大学リーグ(当時は2部)に所属する日大工学部でラグビーを始めたばかりの選手が、日本のトップチームである東芝入りを果たすことになったのである。

こんなシンデレラストーリー、そうそう転がっているものではないだろう。

もちろん、190センチを超える恵まれた体格に加えて、家業の農作業を手伝う中で養ったナチュラルな足腰の強さと勤勉さが切り開いた道だったことも確かではある。
「実際に東芝に入ったら、もちろん周りはうまい人ばっかり。でも、チームとしてはなかなか勝てない頃で、冨岡さんとか、立川さんとか、塚越さんとか、自分よりも断然にうまい選手が、休みの日とかもグラウンドに出てきて練習をやっていた。自分も見習わないといけないと思いました。自分が一番下のレベルだったのは明らかだったので、試合に出るためにはとにかく一生懸命練習するしかなかった」

そんな猛練習の結果、東芝でも徐々に試合に出られるようになり、とうとう2004年5月の韓国戦で、ジャパンとして初キャップを獲得。また、カーワンジャパンの一員として2007年のフランスW杯にも出場。フィジーをあと一歩まで追いつめ、カナダとの劇的な引き分け。大野自身、毎試合、体重が4~5キロ減る激闘ぶりを見せたものの、勝利にはたどり着かなかった。

「一度、経験したことで、余計にもう一度ワールドカップに出たくなった。日本が格上の相手に勝っていくために必要なのは、トライを取り切るための精度。ゴール前まで迫っても、最後、自分たちのミスで相手にボールを渡しちゃう。攻守の割合はおそらくジャパンが4で相手が6。長い守りのところでしっかり守って、少ないチャンスでトライをとっていく。ジャパンはチャンスが少ないと思うので、精度を上げないといけない」
そんなふうに4年前のカナダ戦後に語っていた大野。

この4年間で代表メンバーがどんどん変わって行く中、LOトンプソンルークとともに、前回大会を知るFWプレーヤーとしてニュージーランドにもたどり着いた。

ただし、しっかりレギュラーポジションを獲得していたと言っていい4年前に比べて、ここのところはジャパンの一員として常にピッチに立てているわけではない。

初戦のフランス戦でも先発を北川俊澄とトンプソンに譲り、リザーブ入りしていたものの、とうとう出番は与えられなかった。
フランス戦後、「悔しくて、JK(カーワンHC)に理由を聞きにいった」という大野だが、「次のビッグゲームのため」という説明に納得して、オールブラックス戦に向けた準備に集中してきた。

「あれだけの大観衆でプレーできるチャンスというのは中々ないし、どのチームもしっかり準備してくる。世界中が注目する試合で日本らしいスピードあるラグビーを見せて、日本代表の世界におけるステイタスを上げたい」

世界ランキング1位のオールブラックスとの対戦は、当然ながら注目という意味では最大レベルに達するものになるはずでもある。

加えて、NZ―日本戦は震災国同士の対戦ということもあって、試合前に黙祷などの特別なセレモニーも行われる。

農業を営む郡山の実家も原発事故の影響を受けた大野だけに、ワールドカップでのパフォーマンスで地元の人たちを勇気づけたいという思いも、もちろんある。

「普段はなかなか一般の人たちがラグビーのニュースに触れられる機会というのはないと思うんですけど、今年は幸い4年に一度のワールドカップがある。そこで、日本代表が頑張れば、被災者の方たちにも明るいニュースが届けられるかもしれない」

前回大会でのフィジー戦が大学でラグビーを始めて以来、最も「出し切った」試合だったという大野。当時はまだ20代だったシンデレラボーイもうすでに33歳。それでも、4年前に1試合で体重が5kg減った時以上のパフォーマンスを世界最強軍団に対して見せて、日本を、そしてフクシマを勇気づけてくれるはずだ。