HSBCアジア五カ国対抗2010で、「日本代表を陰で支えるスタッフ紹介~外国人スタッフ編~」をお送りいたしましたが(このページの下に再編)、ANZパシフィック・ネーションズカップとともに、本シリーズも続行しました。 グラント・ドゥーリー/マイケル・バーン/マーティン・ヒューメ/太田正則 /浜村裕之/香川淳一/村上秀孝/木村通宏/原賢二/藤原和朗/中澤ジュリア ■中澤ジュリア ポジション: 通訳 代表チーム内ニックネーム: ジュリア、ジュリアさん 日本人の父親とイギリス人の母親を持つ中澤さんが最初にスポーツ関連の通訳をしたのは、高校3年生の時。アメリカのテレビ局による、フィギュアスケーターの伊藤みどりさんへの取材で通訳のアルバイトでした。「その頃はまだ通訳になりたい、という気持ちはなくて…ただ、誰かをサポートするような仕事に就きたい、とは思っていました」 ある時、通訳という仕事は「自分で様々な人に出会い、そしてサポートできる仕事だ」と思い、通訳の派遣会社に登録。機械系、物理系のビジネス通訳もやりながら、テニス協会やK1、プライドの選手の通訳も行ってきました。「ビジネスの通訳はある程度事前に準備できるのですが、スポーツの通訳には一切シナリオがありません。次に何が出てくるか、毎回先が読めないので緊張の連続です」と話す中澤さん。 ラグビーとの出会いは1997年。トヨタ自動車ラグビー部からNZのフォワードコーチの通訳を1週間、依頼されたのがきっかけでした。「ラグビーはまったく知らなかったので、最初はただ言葉を変換しているだけでした」。 その後もそのコーチが来るたびに通訳を頼まれるようになり、合宿や全国大会も一緒に行きました。「コーチの言葉を日本語にする際に、その言葉が表現する映像が見えるまでに1年くらいかかりました」 1998年からはそのフォワードコーチがトヨタ自動車ラグビー部のフルタイムコーチになったことで、中澤さんもフルタイムの通訳に就任。そして同年、全国社会人大会で優勝。「本当に嬉しかった」と振り返る中澤さんは2003年6月まで同チームの通訳を務めました。その後、ラグビーの海外合宿・遠征などを手配する会社に所属。年に数回、社会人チームの海外遠征などをお手伝いしていました。 そして2006年、カーワン氏が日本代表のアドバイザーを務めたオーストラリアプレジデントXV戦の通訳に。その後カーワン氏が日本代表のヘッドコーチに就任すると、日本代表の通訳としてアポイントされました。 「社会人のチームは1年間ずっと一緒にいて、じっくりチームを作る時間があります。でも代表チームは数カ月間という限られた時間の中で、目標を達成しなければいけない。スタートダッシュがずっと続いているような感覚があります。毎日が勝負で、今でも毎日緊張の連続です」 中澤さんは主にミーティングや戦術の通訳、練習中はスキルスコーチやバックスコーチの通訳を担当しています。「選手やコーチが発する言葉を、できるだけ気持ちをそのままに伝えたいと思っています。特に選手とカーワンヘッドコーチの1対1のミーティングでは選手の真剣な気持ちをそのまま伝えたいと思い、その選手の気持ちになりきってしまうこともあります」と中澤さん。 中澤さんは外国人コーチ陣の日本語の先生でもあります。「できるだけ選手達に直接自分の声で日本語で伝えたい、と思っているので、みなさんとても勉強熱心です」と優秀な生徒たちを絶賛。特に熱心な生徒はドゥーリーコーチだそうです。 「通訳は空気のような存在であるべきだと、私は思っています。できるだけ私は存在感をなくすよう、心がけています」と話す中澤さん。涼やかな声の中澤さんは、間違いなく日本代表にとってコーチと選手の懸け橋的な役割を担っており、かけがえのないチームの一員です。 ■藤原和朗 ポジション: トレーナー 資格: 鍼灸あん摩マッサージ指圧師 日本体育協会公認アスレティックトレーナー 生年月日: 1971年11月6日 代表チーム内ニックネーム: フジ 生まれは秋田、育ちは東京・中野という藤原さん。お兄さんの影響で高校までバスケットボールをプレー。高校では関東大会にも出場しました。ポジションはガード。高校のバスケ部の恩師の影響で、この頃から「トレーニング」に興味を覚え、ご自身でも一生懸命されていたそうです。 大学は早稲田大学に進学。「大学ならでは」のスポーツをしたい、と思い、アメリカンフットボールの同好会に入部。毎週3、4回、多摩川の河川敷で練習に励んだそうです。また、同時に自身のウエイトトレーニングにも熱中したそうです。 学部は人間科学部スポーツ科学科(現在のスポーツ科学部)。高校の頃から興味のあったトレーニングを中心に勉強をしました。そして大学3年生の頃、「トレーナー」という職業の存在を知ります。将来はスポーツの現場に携わる仕事がしたい、と思っていた藤原さんはトレーナーになるべく、大学卒業後、鍼灸の専門学校の夜学に3年間通いました。昼は整形外科でアルバイトをしながら、夜は勉強、そして週末は横浜マリノスのジュニアユースのチームでトレーナーとして活躍。藤原さんはその頃を振り返り、「とても忙しかったのですが、とても充実していました」と話してくれました。 専門学校を卒業後、東京・町田の整形外科に3年間勤務。サッカーや野球をやっている高校生の患者さんが沢山来ていたそうです。その後、紹介で明治生命のラグビー部のトレーナーに。これがトレーナーとしてのラグビーとの出会いでした。「勉強はしていましたが、さまざまな怪我のタイプがあるので最初は驚きました」と話す藤原さん。時間が経つにつれて「どんな症状が来ても動じなくなりました」とのこと。2年半、とても良い経験になったそうです。その後、靴のインソールを作る会社に勤務。町田の整形外科にいたころから携わっていた、体に負担がかからないインソール作りに自身のトレーナーとしての知識を役立てました。また、同時に外部スタッフとして週1回リコーラグビー部でトレーナーとして勤務。そこで現在一緒に日本代表のトレーナーをしている木村トレーナーと出会ったそうです。日本代表には2008年のフォワード選手のみを集めた「タイトファイブ」合宿から帯同。その後もスポットでの帯同を続け、現在に至ります。 「日本代表は各所属チームから集まった選手達の集まりです。それぞれのチームでのやり方があるので、それに合った方法で治療などができるよう、よく選手と相談するようにしています」と話す藤原さん。また、「僕はあくまでスポット。スポットで帯同する3名ほどのトレーナーが順番に合宿や遠征についていきます。なので、僕は代表のフルタイムトレーナーの木村さんと原さんのサポートをするよう、心がけています」と謙虚に答えてくれました。ただ、治療のタイプは実は「痛い治療」との評判。「それが僕のスタイルなんです。もちろん、選手と相談しながらやっていますが、効果が得られるので選手も痛みに耐えてくれてますよ」 日本代表のトレーナーとして帯同できて本当に幸せ、という藤原さん。「グラウンドで選手と一緒に君が代を聞くと、特別な気持ちになります。本当に涙が出そうになります」 真面目な人柄と“痛い“治療で選手、スタッフの人望を集める藤原さん。スポット帯同といえども、日本代表の貴重な戦力の一人です。 ■原賢二 ポジション: トレーナー 資格: 鍼灸あん摩マッサージ指圧師 日本体育協会公認アスレティックトレーナー NSCA CSCS 日本トレーニング指導者協会認定 トレーニング指導者 生年月日: 1978年8月17日 代表チーム内ニックネーム: ハラケン、ハリケーン 小学校一年生から大学までずっとサッカーをプレーしていた原さん。プレーヤーの頃から「どうやったら怪我をしずらくなるのか、試合前はどんなコンディショニングをやれば試合のパフォーマンスが良くなるのか」などに興味があり、筑波大学に進学を決意。体育専門学群に入学し、スポーツ医学を学びました。大学卒業後、鍼灸マッサージの資格をとり、筑波大学の大学院に。現在も大学院に所属しながら、久留米大学で講師としてトレーナー教育に携わっています。 「スポーツ傷害をどう評価するか」ということを専門に研究を行っています。「使い過ぎによる負傷はなかなか見極めが難しい。最善の治療方法を選ぶためにも、基準が作れたら、と思っています」と原さん。選手とじっくり向き合ってケアをしたい、というのが信条だそうです。 トレーナーとして活動し始めてからは自分もプレーしていたサッカーの選手を主にみていましたが、2007年、ラグビー日本代表のヘッドトレーナーだった渡邉誠さんに声をかけられ、スポットでアシスタントとして日本代表に関わることに。 「ラグビーの経験もない自分で務まるのか‥‥という気持ちもありましたが、スポーツ選手の怪我の原因は他のスポーツと共通しているところが多い。体の仕組みは一緒なので、とにかく一生懸命やろうと思いました」 2007年のワールドカップにも帯同しました。「僕はアシストだったので、ピッチには降りられませんでしたが、練習でのサポートやケアをさせてもらっていました。いい経験をさせてもらいました」と振り返る原さん。 そしてワールドカップ終了後、2008年シーズンからもアシスタントトレーナーとして日本代表に帯同することに。 トレーナーの仕事は前回ご紹介した木村トレーナーと同じですが、ヘッドの木村トレーナーをサポートするのも大事な仕事のひとつ。「キムさんは選手の所属する各チームとの連絡などもしているので、僕でもできることを積極的にしようと心がけています」とのこと。 また、「特技は練習用のドリンク作り。手早い準備が必要なんです。あと練習や試合の後にスクイーズボトルを洗って、しっかり乾かして清潔にしておくのも大事です」とも。 原さんは現在のチームスタッフの中で最年少。「大学でも一番年下なので慣れていますよ」と人懐っこい笑顔で話す原さん。トレーナー内でも「しっかりしていて、細かいところに気がきく」と評判の原さんの信頼感は、選手にもスタッフにも厚く、日本代表にとって、とても頼りになる存在です。 ■木村通宏 ポジション: トレーナー 資格: NATA-ATC(アスレティック・トレーナー) 鍼灸あん摩マッサージ指圧師 柔道整復師 生年月日: 1969年8月7日 現役時代のポジション: FL 代表チーム内ニックネーム: キムさん、キミー 父親の影響でラグビーを始めたという木村さん。重量上げでメキシコオリンピックにも出場した父・岳夫さんの勧めで、当時秩父宮ラグビー場で週末練習をしていた東京ラグビースクールに小学校3年生の時に入校。6年生まで秩父宮ラグビー場で走り回っていました。 中学校ではラグビー部がなく、ハンドボール部に所属。高校に入学するとラグビーを再開。フランカーとして活躍しました。 高校卒業後グアム大学へ留学。ホームステイをしていたお宅の親戚の方がグアム唯一の柔道道場を経営する先生だった縁で柔道を始め、トントン拍子にグアム代表に。海外遠征にも行くようになりました。 そんな中、アメリカのコロラドスプリングスという場所で開催されたアメリカズカップに出場した折、運命の出会いをしました。「大会期間中に合宿があって、広い道場にたくさんの参加者がいて、技をかけたり、かけられたり。そんな中、ポロシャツにチノパンという格好の人が選手にテープを巻いたり、氷を当てたりしている。なんだろうな、と思って聞いてみたんです」 それが“アスレチックトレーナー”という仕事でした。 もともとスポーツや医学に興味があった木村さんは「自分のやりたいことはこれだ!」と即行動に。 様々な大学から願書を取り寄せ、その中からオレゴン州立大学を選び入学。4年間かけて勉強し、アメリカの国家資格であるアスレチックトレーナーの資格を取得しました。 卒業後、日本に帰国し、97年にJALの女子バスケットボール部のトレーナーに。そして98年リコーラグビー部のトレーナーに就任しました。「リコーでは“アスレチックトレーナーという資格を持つ人”を探していて、たまたま僕がぴったり当てはまった。やっぱりラグビーは好きなので、嬉しかったです」。リコーラグビー部には6年間所属。その間に鍼灸マッサージの資格も取りました。 リコーラグビー部のトレーナーを終えた翌年の2004年、7人制ワールドカップのアジア予選に出場するためスリランカに遠征した7人制日本代表に帯同。本大会出場を決め、翌年香港で行われた7人制ワールドカップにも帯同しました。「桜のマークがついたものを身にまとったときは、身震いがしました」。拓殖大学のラグビー部のトレーナーもやりながら7人制チームやその他の代表の合宿や遠征に帯同。そして2008年から日本代表のトレーナーに就任しました。 「太田GMがいた日本代表がスコットランドに勝った試合も秩父宮ラグビー場で見ていました。もちろん第1回ワールドカップ(RWC)もテレビで見ていました。まさか自分が日本代表のトレーナーになるとは思っていませんでした」。 トレーナー陣でも中心的存在の木村さんは村上ドクターと連携しながら日本代表選手が所属する各チームのトレーナーさんたちと連絡を取り合うことも役割のひとつ。 試合が終わると必ず選手の各所属チームに連絡。試合日に次の試合地へ移動しなければいけない場合もとにかく連絡を最優先にします。 「大事な選手をお預かりしていますので、コミュニケーションをとることはとても大事だと思っています。自分が関東をベースにしているので、関東以外のチームのトレーナーさんとはなかなか会う機会がない。なので、秩父宮ラグビー場で試合があるときになどは積極的に顔を出します」 合宿中は練習出発前のミーティング1時間前からフィジオルームで選手のテーピング。グラウンドでは選手の水分補給や応急処置などを行い、練習から宿舎に戻るとすぐにスクイーズボトルを洗い、選手のケアが始まります。 「勝利に直接つながらないかもしれませんが、トレーナーという仕事はグラウンド上の限られた時間の中でどこまで選手をサポートできるかが勝負。僕たちも選手と一緒に戦っているつもりです」と話す木村さん。 練習のオフの日が一番選手のケアができるので、合宿中に僕たちには休みはないんですよ、と話す木村さんの笑顔からは、ラグビーと選手たちへの愛情が感じとれました。 ■村上秀孝 ポジション: ドクター (日本体育協会公認スポーツドクター/日本整形外科学会認定スポーツ医) 生年月日: 1967年2月5日 現役時代のポジション: HO(今も現役です) 代表チーム内ニックネーム: ドク 所属クラブ: 九州ドクターズ、隣友クラブ 村上先生とラグビーの出会いは中学校2年生の時。通っていた松山市の愛光中学校にラグビー部ができ、いつも体育のバスケットボールで人に当たってファウルになっていた村上先生が誘われたのがきっかけだそうです。 あっという間にラグビーの魅力に取りつかれた村上先生。コンタクトプレーが好きになり、中高ではPRとしてプレー。医者を目指して久留米大学に入学後、HOに転向し、九州の医歯薬リーグで活躍。西日本医科学生体育大会では優勝を飾るなど、大いに活躍しました。普通は国家試験を受ける準備のため、医学部6年生の夏にはラグビー部引退となるのですが、いざ引退してみると、いままでフリータイムをすべてラグビーにつぎ込んできた村上先生は「まったくやることがなくなってしまった」と勉強も手に付かなくなり、隣友クラブに入部。国家試験の勉強とラグビーの両方を続け、まさに文武両道を貫きました。 ドクターになったあとも研修医時代の日勤、夜勤のスケジュールをやり繰りしてクラブの練習に参加。とにかくラグビーが大好きで、今も現役選手としてプレーを続けています。 ドクターになったあと、九州協会のマッチドクターに登録し、自分の試合がない週末はどこかのグラウンドでマッチドクターをしていました。2003年にU21日本代表のU21のワールドカップへの参加が決まり、日本協会が急きょチームドクターを探していたところ、「そのころ大学の助手として働いていたので、ちょうど時間的に余裕のある僕に声がかった(村上先生談)」とのこと。出発3週間前に帯同することが決定し、南アフリカへ。この遠征帯同を皮切りに、その後2004年もU21のワールドカップに、そして高校日本代表や日本選抜など様々な代表チームの合宿や遠征にドクターとして帯同するようになりました。そして2007年、ワールドカップに参加する日本代表に帯同していた田嶋先生のアシストとして日本代表チームに関わるように。2008年から日本代表チームのドクターに就任しました。 「毎日、とても勉強になります」と笑顔で話す村上先生。日本代表選手たちがそれぞれ所属するチームドクターとチームでやっているコンディショニングについてなどをディスカッションすることでとても刺激を受け、そして日本代表のコーチたちが持ち込む最先端の情報や機材に「まるでラグビー最先端研究所の研究員になったかのようです」とも。 合宿中は朝食時から選手の体重、脈拍、熱などを確認し、具合の悪い選手はいないか確認。具合の悪そうな選手がいた場合はすぐに選手とミーティング。練習中は練習メニューに合わせて選手達を見て、そして怪我が発生した場合はすぐに治療を開始。怪我を抱えている選手にももちろん気を配ります。夕食後はトレーナーさんと一緒に選手のケア。毎日トレーナーさんとミーティングを行い、怪我をしている選手のリハビリメニューも考え、カーワンヘッドコーチに報告しています。 「僕の所属する久留米大学のみなさんをはじめ、周囲が理解してくれて気持よく遠征や合宿に送り出してくれる。スタッフ、そして患者さんにも感謝しています」と村上先生。周りの理解があってこそ、代表のドクターが務められる。だから日々勉強する姿勢は崩さない。 「僕の部屋は合宿中24時間オープンのドクタールーム。いつ選手が来ても対応できるようにしています」と話す村上先生。「選手はもちろんですが、スタッフの健康状態にも気を配ります。僕はチーム全体のドクターだと思っているので」 一緒に仕事をする時間の多いトレーナー陣から村上先生の印象を聞くと口を揃えて「ラグビーに対してとても熱い、男気のある人」「体育会系のとっても頼りになる先生」と、やはり仕事ぶりも根っからのフォワード、ラガーマン気質の様子。カーワンヘッドコーチはじめ、チーム全体が全幅の信頼をおく村上ドクターは今日もボトルキャリーを持ってグラウンドを走り回ります。 ■香川淳一 ポジション: 通訳・コーチングコーディネーター 生年月日: 1975年1月20日 現役時代のポジション: PR(3番) 代表チーム内ニックネーム: 淳さん、ジョニーボーイ ラグビーとの出会いは小学校1年生。ご両親の勧めで地元の長崎ラグビースクールに入校しました。小学生の時にニュージーランドで行われた第1回ラグビーワールドカップをテレビで見て、その衝撃を忘れられず、長崎南山高校を卒業し、20歳のときに単身ニュージーランドへラグビー留学。クライストチャーチのクラブチーム、ニューブライトンにて本場のラグビーを学びました。ニューブライトンは日本代表のアリシ・トゥプアイレイ選手が所属していたチームで、淳さんが在籍当時に「若い子ですごい選手がいる」と噂になっていたそうです(実は最近になってその選手がトゥプアイレイ選手だとわかったとのこと)。 ニュージーランドで6年間を過ごしたのち、2001年に帰国。NECラグビー部の通訳に就任。その際、NECにコーチとして来ていたカーワンヘッドコーチ(JK)と出会いました。JKは淳さんの小学校時代からのスーパースター。最初に出会った時は緊張しすぎてまったく話ができなかったそうです。 日本代表チームのなかでは主に通訳、そしてフォワード、特にスクラムについて、外国人コーチと連携しながら指導をしています。現役時代PR3番以外のポジションはプレーしたことがないという淳さんのスクラムに対する情熱は尽きることがなく、また、外国人コーチ陣の感情や熱い気持ちをそのまま日本語に通訳するその姿からはラグビーに対する愛がひしひしと感じられます。 「ジェスチャーを交えて、JKの熱い口調をそのままチームに反映できる人です」と話すのは日本代表チームで同じく通訳を務める中澤ジュリアさん。「ラグビーに対してとても熱く、そしてちゃんと客観的な目も持っていると思います。通訳としても尊敬しています。でも食事では野菜をあまりとらないので、心配です(笑)」とも。 今、日本代表チームの中ではプライベートも含め、カーワンヘッドコーチ(JK)と一緒にいる時間が一番長いという淳さん。「今でこそ家族ぐるみの付き合いをしていますが、JKは僕のスーパーヒーローですから、やっぱり恐縮します」とひとこと。 グラウンド外ではちょっぴりマイペース(?)という噂もあるようですが、日本代表のフォワードにとって淳さんはなくてはならない重要な存在です。 ■浜村裕之 ポジション: アナリスト(分析担当) 生年月日: 1971年1月26日 大阪府生まれ 現役時代のポジション: SH 代表チーム内ニックネーム: ハマさん ラグビーの盛んな大阪に生まれた浜村コーチは、如是中学校からラグビーを始める。身長が小さい自分が、どうしたらお兄さんに勝てるかを考え、格闘技系のスポーツを探していた際に、如是中学校のラグビー部に仮入部したことがきっかけで、ラグビーの虜に。中学卒業後も三島高校→龍谷大学、大学卒業後もラグビーを続けるため、ヤマハ発動機に入社し、30歳までラグビー三昧な生活を過ごしていたようです。現役引退後は、2年間、ヤマハ発動機のテクニカルを担当。この2年間は、他のスポーツも勉強しながら、分析の勉強に明け暮れ、技術を学んでいたそうです。 32歳から、NZへ。ノースハーバー協会に入り、3年間、NPCノースハーバー州代表とスーパー14ブルースと、唯一の日本人分析スタッフとして契約。ラグビー大国NZで世界のラグビーの分析力や戦術、技術を学びながら、チームの一員として活躍していました。帰国後の2006~07年は、近鉄ライナーズのヘッドコーチに就任。近鉄をトップリーグ昇格へ導いた。その後、ヤマハ発動機に戻り、分析担当に就任。NZ・ブルース時代のヘッドコーチだったデイビッド・ヌシホラ氏が、オーストラリア協会のハイパフォーマンスマネージャーに就任したことをきっかけに、昨年日本で行われたU20世界ラグビー選手権に参加したU20オーストラリア代表の分析担当として誘われ、勤めるなど、様々なチームの分析をし、活躍しています。 15人制日本代表チームの分析担当に就任したのは今年2010年度。トレーニング中にビデオを撮影しながら、その場で選手の動きを細かくチェックできるよう、常にパソコンとモニター片手に仕事しています。JKやその他のコーチのオーダーにもすぐに応えられるよう、夜遅くまで部屋で仕事をし、万全なる準備で、チームの勝利のために、尽力いただいています。また、練習前は太田マサコーチとともに会場に先入りし、分析の準備を行い、チームを迎え入れたりと、準備の段階でもチームのために動いています。 いつもは、関西弁で陽気な浜村コーチ。様々なチーム情報やラグビー情報を持っていますが、その情報を面白おかしく教えてくれ、周りを楽しませています。 太田マサコーチと同様、いつも笑顔で、明るい浜村コーチ。 日本代表選手のスキルアップ、戦術アップのため、ボールを持つ代わりに、常にマック(パソコン)とビデオを持って、選手と共に戦ってくれています! ■太田正則 ポジション: ストレングス&コンディショニングコーチ 生年月日: 1969年8月18日 埼玉県生まれ 現役時代のポジション: FL、WTB(一時) 代表チーム内ニックネーム: マサさん 中学卒業前、車やバイクの整備士になることを夢見て、技術を学べる高校に入学しようと思っていた際に、行田工業高校ラグビー部監督・新井均先生(当時)に誘われ、行田工業高校に入学。新井先生の指導のもと、ラグビーの面白さに魅了され、練習や試合に没頭する日々を過ごしたようです。 高校卒業後、三洋電機に入社。人一倍、闘争心の強かった太田コーチは、当時3列のレギュラーだった、シナリ・ラトゥさん、宮本さん(三洋電機ラグビー部元監督)、そして飯島さん(三洋電機ラグビー部現監督)という強豪選手には、このままでは勝てないと思い、ノースハーバー・ノースシュアにラグビー留学を決断。小さな体でも戦えるよう、スキルやフィジカルの強化に励んでいたそうです。中学、高校時代から、人一倍闘争心が強い選手だったようです。 28歳から2年間は、プレーイングコーチに就任。また、午前中は仕事、夕方には練習、夜はフィットネスコーチの勉強をするため、東海大学の講義を受けるという、忙しい日々を過ごしていたようです。勉強に励んだ結果、現役引退後、三洋電機ラグビー部のコーチを7年間勤めた後、埼玉工業大学のコーチに就任。その後、現在勤めている大東文化大学ラグビー部のコーチに就任。 日本代表のコーチ歴は、2005年に7人制日本代表のコーチとして海外遠征に帯同し、総務も兼務するなど、代表チームのサポート。 15人制日本代表コーチには、2005年11月のスペイン代表戦から、5年間も指導していただいています。 コーチ以外でも、チーム荷物や試合前のロッカールーム作り、選手のケアなど、多岐に渡り活躍していただいています。 トレーニングが始まると、ヒューメコーチと共に、選手一人ひとりの顔や体調を見ながら、練習や試合に向け、最善のウォームアップを行い、最高な状態で選手を試合に送り出すという、日本代表にとって、大変重要な仕事をしている太田コーチ。 普段は、いつも素敵な笑顔で、他のスタッフの心も癒します。日本代表チームの強力なサポートスタッフの一人です! ■マーティン・ヒューメ(Martin HULME) ポジション: ストレングス/コンディショニングコンサルタント Strength & Conditioning Consultant ニックネーム: マーティー オーストラリア出身。 太田正則コーチとともに、フィットネスや選手のコンディションを管理する。 細かいところに目が行き届き、選手のコンディションを常に気にしています。選手の食事や摂取水分量にまで、いたるところに気を配っています。また様々なスポーツ情報に敏感で、ATS(低酸素高地トレーニング)やGPSを取り入れたのはマーティーコーチ。うまく日本チームに取り入れています。 練習や試合時に使っているインカムですが、イヤホンが苦手なよう。いつもヘッドホンスタイルです。 笑顔が素敵で、マーティーの笑顔を見ると心が和みます。 また、奥様を大切にしている愛妻家です。奥様も大変キレイで、気さくな方です。 コーヒーは飲まず、紅茶派ですが、最近は緑茶にもはまっているよう。 豆乳も飲んで、自分の健康にも気をつけています。 日本代表チームの練習中ヘッドホンスタイルで、小柄なコーチを見つけて下さい。 素敵な笑顔を見せてくれるかも!? 左の写真は、日本代表フィットネスコーチ団。太田正則コーチと。右/いつも選手へ目を光らせています ■マイケル・バーン(Michael BYRNE) ポジション: FW&スキルスコーチ FW & Skills Coach ニックネーム: ミック オーストラリア出身、2m 3cmという、チーム一番の長身。 ニュージーランド・オールブラックスのスキスルコーチを経験。選手からの信頼は厚く、また、オールブラックスの選手たちからも尊敬されている。 スキルに関しては、色々な情報を持ち、引き出しがいっぱい。物事を客観的に見て、独特の切り口で選手たちへ指導しています。 趣味はもちろん、世界のラグビー鑑賞。自分の部屋ではプロジェクターを持ち込んで見ているほど。また、エスプレッソも大好きで、エスプレッソマシーンまで持ち込んでいます。豆にもこだわりがあるようです。 背が高く、威圧感がありますが、実は、グランタコーチと同様、お茶目な一面も持っています。 ちなみに、足が33cmもあるため、日本の靴下、靴は合わないようです‥‥。 チームで一緒にいても、顔ひとつ分ほど背が高いミックを見かけたら、怖がらずに、声を掛けてください。 さわやかな笑顔を見せてくれるかも! 試合当日、試合直前にピッチ内で練習しますので、ミックを見つけて下さい! 細かいところでも常にチェック。熱いまなざしでいつもFW陣を引っ張ります ■グラント・ドゥーリー(Grant DOOREY) ポジション: アシスタントコーチ Assistant Coach ニックネーム: グランタ(イタリア代表コーチ時代からの呼び名らしい‥‥) オーストラリア出身、1968年2月3日生まれ、42歳。リーグラグビー出身で、JKがイタリア代表ヘッドコーチ時代に、グランタもアシスタントコーチ・ディフェンスコーチとして指導。 何ごとにも一生懸命で、今は、日本語を覚えることに熱心になっています。BKの練習時の8割は日本語で指導。また、外国人選手との会話も日本語を使っているほど、勉強しています。現在、通訳・ジュリアさんの日本語強化育成選手。 日本代表チームをうまくまとめ上げ、勝利に導いています。 ディフェンスなどで「ファイヤー」や「アイス」など、選手が声を出していますが、グランタは、練習中、グラウンドに響き渡る、選手よりも大きな“ダミ声”を発しています(笑)。 素顔は、少年みたいな笑顔の持ち主。イカつい体からは想像できないほど、お茶目な一面もあります。話によると、よくペンを失くすそうです(笑)。 そんなお茶目な一面を見せる、グランタコーチ。 会場などで見かけたら、日本語でどうぞ声をかけてください!少年のような笑顔で、日本語で対応します!! いつもは大きな声を張り上げて、指導していますが、お茶目な一面を持つ、グランタへもご声援、よろしくお願いいたします!! 明日は、ミックこと、マイケル・バーンコーチをご紹介します! 日本語で指導します!! 練習では、選手よりも大きな声を出しています