欧州5カ国での開催。予選も行われW杯定着を印象づけた第2回大会
NZ、イングランドを抑え、ワラビーズが世界一に

センセーションを呼んだ西サモア。W杯初勝利を挙げた宿沢ジャパン

1991年の第2回ラグビーワールドカップ(W杯)は、実質的には最初の大会と呼んでいいのかも知れない。
ラグビーにW杯を、という声は、1987年の第1回大会決定以前も、何度も浮かんでは消えを繰り返していた『打ち上げ花火』。それゆえ、第1回大会のときは前年になっても「来年ラグビーのW杯があるらしいよ」「ホントに開催できるのかね」……と、呑気きわまりない会話が交わされていた。

しかし、W杯はパンドラの箱だった。第1回大会がニュージーランド(NZ)の優勝で幕を閉じ、世界中に映像が中継されると、世界のラグビーは4年に一度のW杯を中心に動き始めた。89年4月には、第2回W杯の欧州地区予選がスタートしたのを皮切りに、アジア太平洋、アフリカ、アメリカの各地区予選が続々と行われた。

そして迎えた第2回大会。センセーションを呼んだのは、出場16カ国中、唯一の初出場国となった西サモア(現サモア)だ。NZでプレーするサモア系選手で固めた青い軍団は、予選の行われなかった第1回大会に招待されなかった悔しさをぶつけるように、激しいコンタクトでウェールズを16対13で撃破。南米の強豪アルゼンチンも35対12で下し、初出場でみごと8強に進出。NO8パット・ラム、後に日本でプレーするWTBのティモ・タンガロア、19歳のブライアン・リマが、世界ラグビーのスターに新たに仲間入りした。

サモアとともにアジア太平洋地区予選を勝ち抜いて本大会に進んだのは日本だった。89年から続く宿澤広朗監督|平尾誠二主将体制は、CTB朽木英次、FL梶原宏之、WTB吉田義人らスコットランドXV撃破のコアメンバーに、プレースキッカーのFB細川隆弘、ペネトレイターのLO/FLエケロマ・ルアイウヒらを迎えながら徐々にバージョンアップ。W杯に向けても、3月に学生日本代表がアイルランドへ、4月に日本Bがジンバブエに遠征して情報もしっかり収集して本番に臨んだ。

初戦のスコットランドは優勝候補の一角にも挙げられた強敵。『ホワイト・シャーク』と恐れられたFLジョン・ジェフリー、巨漢FBにして世界的ゴールキッカーのFBガヴィン・ヘイスティングスらベスト布陣で臨んだスコッツに対し、日本はSHに高速サイドアタックの『秘密兵器』村田亙を先発させ、前半を9対17の接戦に持ち込んだ。結果は9対47で敗れたものの、手応えを掴んだ日本は、中3日で臨んだ続くアイルランド戦では、自陣からWTB吉田義人が70メートル快走、サポートしたSO松尾勝博、FL梶原宏之と繋いだトライなど3トライを奪った。16対32という点差よりも拮抗した戦いを演じた日本代表は、ジンバブエとの最終戦ではこの大会最多となる1試合9トライを奪取。52対8の圧勝で、記念すべきW杯初勝利を挙げるのだ。

「みんなパンクするくらい走らんと、日本のラグビーはでけん。こっちがパンクするか、向こうがパンクするか、そのくらい走らんと、日本が勝つ可能性は出てこんのです。今日やったヤツは、それがわかったと思う」  試合後、キャプテンの平尾誠二は、そう言って汗をぬぐった。

■ キャンピージの躍動、“フランスの王様”の引退

前回大会を圧倒的な強さで制したNZは、プール戦でホスト国イングランドとの開幕戦に18対12、イタリアにも31対21と苦しみ、カナダとの準々決勝も29対13と苦戦。準決勝の豪州戦に6対16のノートライで敗れ、王座から陥落した。

代わって世界を制したのは、準決勝でオールブラックスを下した豪州代表ワラビーズ。プール戦では西サモアに9対3、準々決勝のアイルランド戦では後半34分に逆転され、終了直前に再逆転トライで競り勝つなど厳しい戦いを続けたが、光ったのは大会を通じて失トライ僅か3という堅牢なディフェンス。プール初戦・アルゼンチン戦で2トライを奪われたものの、残る5試合の失トライは準々決勝アイルランド戦の1のみ。

大会のスターは豪州のWTBデヴィッド・キャンピージだ。背番号11をつけながら右WTBを住処とし、状況に応じて左WTBやFB、SOにもポジショニングを変える変幻自在のランナーは、足を高く振り上げるグースステップで防御を幻惑、相手の予測しないスペースに走り込む高速移動と、魔法のようなパフォーマンスで、NZのカーワンから主役の座を奪回。そのカーワンと対決した準決勝のオールブラックス戦では、相手の背後に蹴ったボールに素早く追いついて拾い、相手ディフェンスを細かいステップで幻惑して、背後でフリーになったCTBティム・ホランにノールックでラストパス。この神業アシストは、大会のファイネスト・モーメント(最高の瞬間)に選ばれた。

大会の得点王は、アイルランドのSOラルフ・キーズ。ワールドカップを前に、攻撃的SOとしてアイルランドを引っ張ってきたブライアン・スミスが13人制ラグビーリーグへ転向したため、5年ぶりに代表復帰したキーズは、正確なキックで7C16PG2DGの68得点。優勝したオーストラリアのマイケル・ライナーの66点(2T11C12PG)を2点抑えてワールドカップ得点王を手にした。もっとも、キーズの68点はワールドカップ6大会の得点王で最少。というか、他の5大会の得点王はすべて3桁得点だった(最多は第1回大会ニュージーランドのグラント・フォックスで126点)から、ずば抜けて少ない。これも、防御優位だったこの大会を象徴している。

ワラビーズと決勝を争ったのは、開催国イングランド。スコットランドとの準決勝までは「蹴ってばかりの退屈なラグビー」と批判を浴びたが、決勝では一転、CTBウィル・カーリング主将とジェレミー・ガスコットの両CTBを軸にボールを積極的に動かす攻撃ラグビーで挑んだが、トライラインには届かなかった。

世界ラグビーの変化を感じさせたのは、古豪ウェールズの凋落だった。3位に食い込んだ前回大会後の4年間で、SOジョナサン・デーヴィス、CTBジョン・デバリューら中核選手が続々と13人制ラグビーリーグに転向する苦しい台所で臨んだ大会だった。さらに初戦のサモア戦では、キックを追った相手選手が、インゴールでボールを抑えられなかったがレフリーはトライを認定。これが決勝トライとなった。当時からビデオ判定があれば、歴史は変わっていたかも知れない。

W杯が、ラグビー界の英雄を見送る舞台となったのもこの大会から。パリで行われたイングランドとの準々決勝で敗れたフランスのセルジュ・ブランコは『ラグビーの王様』と謳われた栄光のキャリアにピリオドを打った。33歳。当時の世界最多記録となる通算93キャップでの引退。

試合後、「絶対に勝つって約束したじゃないか」とくってかかった息子を「人生には負けることもある。大切なのは、負けた後の振る舞いなんだ。今日のパパを見ていなさい」と諭した。試合後の会見では、イングランド記者の挑発気味の質問にも、穏やかに、かつ毅然として応対した。
『王様』は最後まで『王様』だった。

Text by Nobuhiko Otomo


 

■成績・日本代表メンバー

※メンバー表内のC=主将 キャップ数は大会開幕時のもの

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