Text by Kenji Demura

The Inside Story of the Japan National Team

W杯初戦のフランス戦で2トライ1ゴール3PGの21得点を叩き出し、敗戦チームながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる活躍を見せたSOジェームス・アレジ。
「自分の家族や友だちの前で日本チームの勇気あるプレーを見せることができた。本当にジャパンの一員であることを誇りに思う」
一時は世界ランキング4位の強豪を4点差にまで追いつめた日本の指令塔にとって、次戦のオールブラックス戦は特別な一戦になるはずだった。

ニュージーランド出身のアレジにとって、オールブラックスになることは他のNZの男の子と同様、小さい頃の夢だった。
しかも、オールブラックス戦が行われたハミルトンはアレジの生まれ故郷でもあったのだ。
「自分がニュージーランド出身ということを考えなくても、世界一のチームとワールドカップで試合できるなんて、そうあるチャンスじゃない」
他のジャパンスコッドと比較してもオールブラックス戦出場への思いは強かったアレジだったが、2011年9月16日、ハミルトンのワイカトスタジアムのグラウンド上で子供の頃憧れていた漆黒のジャージに身をまとった男たちと対峙することはなかった。
NZ戦から次戦のトンガ戦まで中4日しかない厳しいスケジュールもあり、ジョン・カーワンヘッドコーチは勝利の可能性という意味では確率が一気に高くなるトンガ戦に万全の状態で臨んでもらうため、アレジをオールブラックス戦のメンバーから外すことを決断したのだ。

日本代表のSO、ジェームス・アレジ選手
日本代表のSO、ジェームス・アレジ選手
photo by Kenji Demura (RJP)

前述のようにNZ北部ハミルトンで生まれたアレジ。すでに2歳でラグビーボールと触れ合うような環境にあったが、本格的にはオークランドに引っ越しをした後、6歳でラグビーを始めている。
「ラグビーをはじめてすぐにSO(NZではファースト・ファイブ・エイスと呼ばれる)になった」という、生まれながらの司令塔ともいえる資質を生かしてスクールラグビーで頭角を現し、01年には21歳の若さでスーパー12(現スーパー15)デビューを果たすまでに登り詰めた。
03年には同じくスーパー12のハイランダーズに移籍。トニー・ブラウン(元三洋電機、元NZ代表)を押しのけてSOとして先発出場した試合などもあり、ラグビー王国NZでの前途は洋々だったはずだが、同年のNZ国内選手権が終わった後に、突如、日本行きを決断することになる。

「ちょうどその頃、当時はガールフレンドだった現在の妻が、NZを離れてどこか外国で暮らしたがっていたし、自分も何か新しいことにチャレンジしたいと考えていたんだ。
そんな時、フランスやウェールズのクラブからもオファーがあったんだけど、昔から知り合いが日本のチームでコーチをやっていて、03年のNPC(NZ国内選手権)が終わった後に、コンタクトしてきた。
僕の方は、『日本? いいねえ。面白そうだ。寿司も好きだから、行きたいねえ』なんて、最初は軽く答えた感じでね。とりあえず、一度行ってみて、どんな環境なのか見てみようということになったんだ」

アレジが誘われることになった日本のチームは大阪をべースとするNTTドコモ。当時はトップリーグの下部に位置するトップウェストのチームだった。
ちなみに、この03年にプレーしていたチームがトンガ戦の試合会場となったファンガレイをホームとするノースランドだったというから、そういう星の下生まれていたということなのかもしれない。
「NTTドコモ関係者からクラブの方向性を聞いて、『いいチャレンジになるかもしれないな』と感じたし、何よりもみんないい人たちだったからね。新しい生活をするには、いいかもしれないと思ったんだ。
でも、最初のうちは戸惑うことも多かった。ラグビースタイルはもちろん、生活様式もニュージーランドとは全然違ったからね。
ラグビーに関しては、『日本のラグビーはなんて速いんだ』って、まず感じたよ。それに、選手全員がフィットしている。たぶん、サイズ的には自分がNZでプレーしていた時に回りにいた選手たちよりも大きくはなかったと思うけど。スピードとフィットネスには驚かされたよ。それに、練習量の多さにもビックリした」

こうして04年のシーズンから日本でプレーするようになったアレジだが、NTTドコモに加わった当初は、自分が日本代表としてプレーすることになるとは考えてはいなかったという。
それが、翌年のシーズン、ある選手がNTTドコモに加わったことによって、考えが一変することになる。
アレジと同じくNZ出身で、03年W杯などで日本代表として活躍したSOアンドリュー・ミラー。彼の存在がなければ、あるいはアレジが桜のジャージをまとうこともなかったかもしれない。
「1年目は将来的にジャパンの一員としてプレーするということはまったく考えなかった。実際に日本代表のことをちょっとでも考え始めるようになったのは、2年目にアンディ・ミラーがNTTドコモに加わってから。実際、アンディは2003年のW杯で活躍していたし、日本代表での経験は素晴らしいものだと話してくれたんだ。それからだね。自分も日本代表でプレーすることを考えるようになったのは」

さらに、アレジが3年居住条項を満たし、日本代表に選ばれる資格を有するようになったのとほぼ時期を同じくして、ジャパンのヘッドコーチにジョン・カーワンが就任。
少年時代の憧れの選手であり、オークランド時代にコーチも受けていたJKから「日本代表でプレーしてくれ」と誘われた時には、何の迷いもなく「YES」と即答するまでに、桜への思いは高まっていた。
もちろん、その年の秋にW杯が控えていたことも、アレジのジャパン入りを後押しする大きな要因でもあった。
「アンディ(ミラー)からもW杯がいかに素晴らしいかを聞かされていたし、自分にとっても大きなチャンスだと思ったんだ。代表チームでプレーすることで、最も高いレベルのラグビーに触れられるようになる可能性が高まるのは確かなわけだったし」

本来なら、そのW杯出場への思いは4年前にかなえられていてもおかしくなかった。
前述どおり、07年にカーワンHCがヘッドコーチに就任し、アレジもそれに合わせるかのようにその年の春から日本代表入り。4月のアジア3カ国対抗の韓国戦で彗星のごとくデビュー。いきなり2トライ、10ゴールを記録する活躍を見せて、関係者とファンを喜ばせた。
ところが、その1ヵ月後。クラシック・オールブラックスと称する、アレジ自身も憧れた往年のNZ代表を集めたスターチームとの対戦で左足首の骨折。そのままシーズンを棒に振り、フランスW杯出場も果たせなかった。

この4年間で、アレジを取り巻く環境は大きく変化してきた。プレーの場所もトップウェストからウェールズ、そしてイングランド2部リーグへ。
「ウェールズやイングランドでプレーするようになって、タフになったと思う」というアレジは、生まれ故郷のW杯でオールブラックスとプレーするという人生1度きりしかないチャンスを逃した悔しささえエネルギーに換えて、20年ぶりのジャパンの勝利のために桜の指令塔のタクトを振り続ける。