日本における女子ラグビー

日本国内での女子ラグビーの始まりは、今を遡ること20年前1983年のことになる。それ以前にも大阪や東北でラグビースクールに子供を通わせているお母さん達が一緒にプレーしていたことは、事実として伝え聞いているが、女性達が本格的にスポーツ競技としてのラグビーを始めたのは1983年で、東京、名古屋、松阪でほぼ同時にチームが誕生している。

世界の女子チームの誕生と比較してみると、1965年にフランスでチームが誕生したのが最初で、1970年代にはかなりの国、たとえばイングランド、アメリカ、カナダ等でチームが活動を始めていた。

東京について話をすると世田谷区が主催した「ラグビー初心者講習会」の募集要項に「男女不問」とあったために、女性7名が応募したことから始まっている。それがラグビー誌に掲載され、またTVに取材され……ということで、またたくまに人数が増えてチームとしての形を成すことになった。当時の参加者は10代の学生から30代の主婦までとバラエティーに富んでおり、教える側の男性コーチも指導について苦慮したのではないかと推察される。

初めて女性同士の試合が行われたのは、翌年(1984)のことで、世田谷レディースが遠征をし、ブラザー工業レディース(のちの名古屋レディース、ブラザー工業のハンドボール部の選手が主体となっていた)と松阪レディースと対戦をした。その後これらの3チームが行き来をして交流が生まれるようになっていった。活動をしていくうちに、女性にとってなじみの薄いスポーツではあるが、これからやりたい女性が増えていくであろうと思われ、とりあえず、現状でどのくらいの女性が実際にプレーしているのか把握しておこうと、当時の世田谷スクール校長のご協力を仰ぎ、アンケートを作成して各地のスクールに送付した。アンケートの中に、横の繋がりを持つために「連絡会」を作ろうと思うが、賛成かどうか?
という欄を設けたところ、回答のあった15チームすべて賛成ということで、連絡会という名称で立ち上げることになった。しかしながら、現実には東北地区との交流は図りにくく、しばらくは関東と名古屋あたりでの交流のみとなっていた。

それから4年を経て、様々な紆余曲折を潜り抜け、1988年4月に「日本女子ラグビーフットボール連盟」は誕生した。当時の理事は世田谷レディースに在籍していた岸田則子、川口敬子、大嶋栄、増岡文子の4名で、まず最初に総会の開催に着手した。そこでの参加者に協力を呼びかけ、11月に第1回の「交流大会」を開催した。これには、首都圏以外に八戸、十和田、新潟、和歌山、福岡から参加があり、マスコミの取材も数多くあり、これからの可能性を感じさせる大会として心に残るものであった。その後、4名は他の仲間とともにクラブチーム「リバティーフィールズ」を設立し、活動の拠点を移すことになる。交流大会は毎年11月

23日に定着して行なわれ、昨年には第15回大会が行われるまでになった。女子ラグビー唯一の全国規模の大会であり、加盟チームの年に一回の晴れ舞台でもある。近年は競技者育成も考え、スクール女子の試合も行ない、参加者が年々増加している。

交流大会開催の翌年には競技人口の増加を目指し、「初心者講習会」を開催した。これは途中から関東地区と関西地区とに分けられ、それぞれ事情がないかぎりは続けて行っているが、社会人トップチームにコーチをお願いしたときには盛況でも、それ以外ではなかなか

参加者が集まらず、ここ数年は厳しい現実にあえいでいる状況である。そのほかに、春には関西での7人制大会、夏の菅平でのサマーキャンプ、レフリー育成のためのレフリー講習会、秋には各地区での大会、また各種招待試合もある。さらには、日本代表選手によるワールドカップへの遠征、香港7人制大会への参加、そのための選手セレクションや、強化選手練習など活動は多岐にわたっている。

現在は、幼稚園児から50代まで1,000人位の女性プレーヤーがラグビーを楽しんでいる。これは、イングランドやアメリカなど1万人を超えるプレーヤーのいる国から比べると圧倒的に少ない数である。男性のプレーヤーに比べ、結婚後や出産後に続けるのが難しいのが現状で、多くのプレーヤーは他のスポーツからの転向者であるが、まったくスポーツを経験したことの無い者も中にはいる。それぞれがクラブチームやスクールのママチームでラグビーを純粋に楽しんでおり、少しでも競技人口を増やしたいと願い、また皆の楽しみの後押しをしようと活動をしているのが連盟である。昨年度より日本協会の一員となり、多くの方のご協力を仰ぎながら少しずつ歩を進めて行きたいと考えている。